趣味を本気で仕事にして19年。今思うこと

趣味は仕事にできる!趣味を仕事にしてきた思考法を公開します。どんなことが起きて、どんな思いをして、これからどうなっていくのか!?正直なところを表現していくので多少の言葉づかいはお許しください。

一昨年の挑戦


一昨年から農業を始めて枝豆をメインに作り始めた。

ちょうど今の時期

はじめての経験だった。

ひのきの酵素も使ったこだわりの枝豆だった。


自然を相手にするのがすごく面白かったし、自分たちで育てた野菜や果物が出来るのが小さな成功の連続ですごく嬉しかったのだ。

もちろん食べてもうまかった!
こだわりの土作りをしていたし知識の豊富な仲間もいたしすごく楽しかったのだ。

時間は一気に持っていかれて、睡眠時間を削るしかなくてたまに身体が辛かったけど、作物のできる喜びの方がまさっていたので、問題はなかったように思えていた。

でも、土地を貸してもらっていた仲間から突然辞めると言われてしまった。


何かあったような様子だった。
それはオレに問題があったように思えた。


今までかけてきた時間とお金と汗の量を思うとやるせなかったけど土地が貸してもらえないならどうしようもなかったから、あきらめた。

壮大な未来に残せる街おこし計画があったがうまく共有できなかったしあまりにも早く物事を進めすぎてしまったのも原因とも思う。

その場所でその人をリーダーとしてこそ出来ることだったので少しもったいないとも思ったけどあきらめるしか道はなかったのだ。

土地がない。。それにつきる。
オレに土地があったらとも悔やんだ。


なんてったって、枝豆の2000株は収穫前にほとんど売却済みだったのだ。800gで1400円の値段をつけていた。

これは成功していたのだ!

作戦も凄く考えて、頑張っていた!


初心者でもやれば出来る!という良い成功例も作ることも出来ていた。

それも発表して、もっと仲間をつくりたかった。

きっと誰かの未来のための枝豆になる!とも確信もしていた。


このことは文章で書ききれることの内容ではない。


でも、計画の道筋をみることが出来たし、何より成功していたのはデカイ!

この経験は必ず生きてくるので結果オーライで良いと思っている。

本当に良い経験をした。

すべての関わってくれた人たちに感謝します

ありがとうございました。

自分の話

今もそうだが精神論は鍛え上げてきた。

だから自分のお店を17年間やれてきているのだとも思う。自分にはこれが合っている。


少し自分の話をします。


二十歳の時にうちの家族は離散している。

この経験は自分の道を早くに決めた理由でもある。



地元の友達といつも将来の楽しい話をしていた。

そのはずだったが、いつのまにか

「いつまで夢見たいなこと言ってんだ!?…」

と言われるようになった。


その経験も自分の仕事を早々と決めることにもなった。


自分の知らない土地で自分のやれることで起業したのが26歳のときだ。


本当は自分のやりたいこと、やってみたいことで起業したかった

それが挑戦だと思っていたし、そのほうがカッコいいとも思ってた。

でもとにかく何より早く独立したかったから、自分がずっとやっているバイク業をそのまま自分の仕事にしたのだ。
もちろんその仕事は好きだ。

でも、やれることを選んだし、挑戦しているわけではないと思っていたので、そんな自分に対して何か、悔しさと情けなさがあった。

いつか必ず挑戦してやる!と思ってたし、今も思い続けている。


今までに数える程度の挑戦をした


バイクと並列してやっているひのきの酵素風呂は一つの挑戦だった。
(現在はコロナでシボウしいるが…)


この時のバイク業界からの「お前何やってんだ!?…」という批判はなかなか辛いもんだった。

新しいことを始めるヤツに応援してくれると思ってたのに、否定しかなかった時の孤独感といったらなかなかのもんだった。


でも、この時の気持ちがとんでもない反骨精神を生んだ。

「絶対にこいつらを黙らせてやる!!」


そこから5年近く出展したすべてのカスタムショーでトロフィーを貰い続けている。
今は余計な声は聞こえない。


この時に否定した人たちは少しかわいそうにも思う。

なぜなら、あの時否定してしまったのだから、自分で何か新しいことを始めるということが出来なくなってしまっているのだ。

それを始めてしまったら、そんな矛盾はないし、そんなカッコ悪いこともない。

だが、それでもやりたいことがあるなら絶対にやったほうがイイ‼️


本当に人生は一度しかないのだ

人のことを否定している暇はない

やりたいことがあるなら

絶対にやりとげてしまうのが人間だ。

やりたいことをやっているのだから失敗するわけないのだ。

絶対にやりきれる。


その一歩が人生を決めるのだ

それはいくつになっても変わりはしない。

オレたちにはやることがある

出来ない理由を探して何になる!?

出来ない理由なんかいくらでも誰でも

簡単に見つけることが出来ること。


そんな発言してくるヤツは後悔しか生まない

そんなヤツに説明している時間は無駄しか生まない。

前に進むヤツは他にすることが沢山あるのだ

人それぞれの思いやり

相手への思いやりは、自分が今までの経験で考えた自分だったらという自分なりの思いやりで

相手が本当に望んでいることは何だろう?
と深掘りをしていない 自分の思い込みによってできたのものほうが多い。


時にアドバイス的なものは、ささる人もいるのは確かだ。


だが、人によってはありがた迷惑なのだということもわかってなくてはいけない。

自分の正解が相手も正解とは限らないのだ。


何かのために、ダレかのためにと考えたり行動したりするのはすごく良いことだと思います。

ですが、それは本当にその人に合った、その人のためのことなのであろうか!?

今一度考える必要があるように思う。

自分の見ている景色。

人は歳をとるごとに自分で解釈した思い込みと偏見で物事を考えるようになる。

そして社会のしがらみに自らが知らないうちに縛られていく

自分のみている物事を自由に想像することが難しくなっていく。


これは良くない人物像を想像するかもしれないが、実はとても成功している人に多いのも事実。
成功し続けると成功パターンしか見えなくなって、ある時から視野が狭くなっていくのだ。

常に自分を客観視できるように意識したい。

当たり前のことが自分の視野を狭くする

ダレかが言っていた。

便利なものというのは、当たり前になってくる。

言い方を変えれば保護色のように目にはいらなくなってくる。


それは人間関係も一緒。

大切な人の優しさも、当たり前になってしまったら見えなくなる。

感謝の気持ちは保護色であってはいけない。

そんな目標設定ならいらない

心配とは実はネガティブな目標設定だ

人は自分が考える方向に動くし考える

物事がうまくいかないだろうといつも考えていれば自然にその方向にいってしまうのは当たり前の話。

誰でも時々はそうなるかもしれない

でも、年中心配していたらそれは気の毒でしかない。


心配して先を読むことで物事をコントロールしていると思っている人もいる

最悪のことを想像して、備えあれば憂いなしかもしれないが

他に良い方法を知らないからそうせずにはいられないとも言える


心配したことのほとんどは実際には起こらない

心配とネガティブな感情は精神的にも肉体的にも負担を与えているのだ

その考えている時間はもっと自分のためになる違うことに使おう!